江戸時代中期には、神社の神官たちが、京都の「玉造」に原石を持参し、加工させるようになった。金剛砂(こんごうしゃ)と呼ばれるダイヤモンドのように硬い石の粉末を鉄板に蒔いて水晶を磨く方法は
京都から招いた職人によって伝えられたもので、甲州研磨として定着し、江戸時代末期には地場産業の基盤を築いた。
記録によれば安政年間(1854年〜1859年)の土屋家の「萬注文帳」に
水晶やひすいなどを使った数珠や帯留、根付などの注文があり、産地として確立していたのがうかがえる。明治時代になると根付、かんざし、帯留などの需要が増え、職人の育成も盛んになる。国の殖産興業政策にものった形で、甲府市は「水晶の街」として全国にもその名を知られるようになりました。その水晶を使って、この街ならではの精緻で美しい工芸品を生み出してきたことも特筆されます。透き通った美しい彫刻はまさに日本に誇れる工芸といえます。しかし明治末期には水晶資源が絶え、大正初期には南米やアフリカ諸国から水晶やめのう、ダイヤモンドなどの貴石を輸入し、伝統の研磨技術を駆使して加工する産地となった。設備の電化により生産効率が高まり、発展の足がかりをつかんだのもこの頃で、美術工芸品、装身具をはじめ精密機械部品まで生産するようになった。当時、第1回パリ万国博にも出展、その彫刻研磨の技術は日本だけではなく海外にまで定評を得ました。
現在でもその心は引き継がれており、精巧で沈美な高級品を中心に、他に類を見ないほど豊富な貴石類を使った多様な作品を生み出しています。
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